横山博ピアノリサイタル感想

2020年1月11日、豊洲シビックホールにて開催された横山博ピアノリサイタルに伺っておりました。

内容が濃くならざるを得ない曲目ですが

ジョン・ケージ「4分33秒」 John Cage [4‘33“](1952)

モートン・フェルドマン「バニータ・マーカスのために」 Morton Feldman [for Bunta marcus : for piano solo](1985)

の2曲の演目。

折しも香川県の、義務教育を受ける年齢の子供はネット・ゲームは平日は1日60分以内にするという条例案が物議を醸し出しておりますが、「バニータ・マーカスのために」の演奏時間は75分ということで60分を超えた作品。時間という単位で考えると長尺の曲ですね。もしこの曲をインターネットで視聴しようとしたら香川県では条例案が通ると全部まとめて聴けないということになるのでしょうか。気になるところです。

生田流の地歌の曲として1番長いと言われている「三津山」で30〜40分、山田流箏曲だと長い曲がさらに生田流より多いなという印象があるのですが、「葵上」が40分くらい、過去、聴きに行った演奏会で60分くらいのものもたしかあったのですが曲目がすぐ頭に出てこず。なんだったかなあ目出度い内容の歌詞だった気がします。それらより長い曲ということですね。

さて、2年前にも横山くんはジョン・ケージとモートン・フェルドマンの組み合わせでリサイタルをしておりました。主にケージの演奏についての感想ですが過去の私のブログを良かったらお読みください。

横山博くんのピアノリサイタルに行ってきた。 : 天地六合

今回のリサイタルでは「4分33秒」。その容態が21世紀初頭の現代においては音楽ネタとしてSNSなどで使われがちですが、この曲の作曲は1952年。第二次大戦後から現在まで半世紀以上たち、人類の技術的革新が大きく進んだわけで、環境にもよりますが1人の人生の中で得られる情報量など比べ物にならないほど現在の方が多いことでしょう。もう少し遡ると産業革命以後の様態変化の中で音楽も大きく影響を受けてきたわけですね。ともかく現在の価値、視点から一方的に過去の作品に対し断ずるというのは不遜ではないかなあと思います。音楽に限らず。

また、殊更、録音再生機器の誕生、そして一般化以前と以後では音楽の影響力というのも大きく変わったのではないかなあと思っております。現在においてはスマートフォンで誰もが手軽に録音、再生できる時代ですが、音というものは空気の振動、波長であり、マイクに伝わった空気の振動、波長を記録しているものになります。これはどうしようもないですが音のみを記録しているということですね。併せて映像を撮っていたとしてもこれは光の反射の記録です。もちろん、それらを簡単に記録できるようになったこと自体は凄いことではあります。

ただ、それらが音楽をある意味固定化したというか音楽の枠組みを狭くした印象も受けております。音のみの記録の一般化により、音のみで音楽を感じてしまう、というところでしょうか。音楽なんだから音のみでいいじゃないかとも言われそうなところですが、マイクで録れる音で録った過去の時間の再生と生でその場で演奏するその空間とは情報量および能動性においてやはり大きく差があります。

この「4分33秒」はその場に居ることで意義を感じられる作品であり、その後に「有音の75分」が控える形での「4分33秒」は奏でない時間が大変有意義に感じられました。周りが静かになると自分の身体の内で常に発している音を意識するのですが、しっかりとその音を意識するレベルにまで敏感になってから聴くというのは大変にユニークです。終演後、横山くん本人が言うには「今日の4分33秒は緊張感がそこまででもなかったな」とのことでしたが、豊洲シビックホールだとホール壁がガラスで外の景色が動くのでその意味で背景は動態なので張り詰めずほどよく流れがあったと自分も思います。

話が横道にそれますが「3分34秒」という曲を思いつきました。「なんでや!阪神関係ないやろ!」

現代は商業的な音楽もサブスプリクションの時代となり、個人でもお店でもどんどん音楽を流して空間内に音が何かしらで充満している時代となってきましたが、この「4分33秒」のように音を意図的には奏でないという方向性はまた違う形で皆も体感しているかもしれません。例えば黙祷。例えば座禅。どこでも音が溢れる時代になったからこそ静寂も価値があると思います。そうした価値観も含めて「4分33秒」に向き合ってみるのも面白いかもしれませんね。

次に「バニータ・マーカスのために」ですね。ピアノの余韻を長く残せるのいいなあというのがまず第一に出てきてしまうし、自分の基本的な集中力が50分くらいだなあということを感じたり、それでも75分なんだかんだ楽しんで聴けたので自分もマニアックなんだろうなあやはりと思ったり。いわゆる高音の残響の唸りは特に聴いてて心地いいですね。楽譜上75分の曲をほぼ75分くらいで演奏し切るのは単純にすごいの一言。良くも悪くも客席の入りがほどほどだったのも良いかと思います。これがもし満員だったとしたら、生理的に酸欠で眠気がくる方が多数出てたのではないかなと思います。この曲は鑑賞するにあたってのリラックス具合が大事かなあとリラックスして聴かせていただきました。

この曲は大雑把な言い方ですみませんが普段耳にするような時間軸においての音高の上下の差と速度で聴かせるものではなく、演奏する空間に時間軸で音の響きを堆積させていくような感じですね。発生した音が空気を振動させホールの奥に届きまた反射して…みたいな響きが折り重なっていくし、もちろん音は消えゆくので残響が長いピアノと言えど過去の音は失われていく。その中で空間内に響きをデザインしていくというような印象をうけました。

フェルドマンは絵画のような二次元的視覚芸術を音楽にする方向性のチャレンジをしており、自身のさくひんとペルシャ絨毯との関連性を講演会で述べていて、その意味で「空間を染める」という行為なのだろうなあと思います。響きの中に身を委ねるのはなかなか心地がいいものです。箏を弾いていても自分も時間に余裕があるときのゆったりと調絃している時間が好きだったりしますが、似ているものを感じます。

そんなこんなで演奏曲目は2曲ながら大変に面白い体験ができた濃い時間を過ごせました。